C++ ときどき ごはん、わりとてぃーぶれいく☆

Wonder Rabbit Projectのなかのひとのブログ。主にC++。

人生ポエムの記録、ルアード化、神の認識と定義と信仰、現実世界への帰還

まえおき

今回の記事は「心の技術」かもしれないけれど、このブログでふだん書いている類の技術についてではまったく無いし、この現実世界の宗教としての神に関してでも無いし、表現はともかく私自身のこころの話であり、すなわちポエムというのが適当そうな何か。人生、たまに自己認識のために気付いた思考を、この世界へ自身を存在たらしめる明確な楔として打ち込んで置くのが自分自身にとって善い気がする事がある。そういうもの。たぶん、こういう事は10年か、15年か、あるいはもっと、または今後実質永遠に、書かない程度の事かもしれない。今はなんとなく書いておきたい気分になったのでポエムとして書き残しておく事にした。

言いたいことは3つ(と思ったんだけどね😋)

  1. ルアード化
    • わたしは根絶の錬金術に陥っていたのかもしれない
  2. 神の認識と定義と信仰
    • 現実世界を受け入れよう
  3. 現実世界への帰還
    • 生きる事を忘れていたが、生きてから死ぬだけの、生きたい理由を思い出せた

1. ルアード化

ルアードとは近年遊ばせて貰ってたいへん感銘を受けたゲームの1つ、通称アトリエシリーズの不思議シリーズに登場する人物。彼は世界を壊す事を厭わず、世界の未来を継続する資源性を完全に意図してまで考慮から除外し、彼が今を生きるためだけに消費して生きる選択をした。もっとも、このゲームではシリーズを通して、ルアードは500年前にそのような事をこのゲームの世界の中で行ったがゲームシリーズの他の主要人物たちの優しさや諦めない願いの力に"当然"負けて、このゲームの世界の中での仕組みとして500年生きた上で結果的には極めて純粋に世界に希望の存在を強く願う優しい人物になり、その長い人生の中で、短い人としての人生を送る事になるのだけど。"ルアード"はそんな彼が過去にやらかしモードに染まってしまっていた頃の名前、そして彼の昔の名前。その時の彼の力、というか知識、そして行動結果としての資源の使い方が作中では"根絶の錬金術"として描かれている。

もちろん、私はこのルアード様のように世界をどうこうできてしまうほどの力と資源の操作は到底できない。つまり、さっそく例えが大層過ぎるとは私自身も思うのだけど、そこは一人の人間が心にビビッと来てポエム化しているので大目に見て欲しいところ。

ここからは私の話。

私はローティーンの頃には自作のアプリが雑誌に掲載されたり(今では黒歴史であり、つまり、しょぼ過ぎて恥ずかしい程度ものではあるが)、ちょっとしたツールアプリを作っては専門家たちが使うツールを紹介する記事で触れてもらったりもしていて、そういう、いわゆるソフトウェア開発や電算機を扱う能力についてひとよりも"チョットデキル"ような気になっていた。

と、同時に、幼少の頃からの科学的な探究心に傾倒(おとなの"いま"の認識の表現いえば)していった結果として、いわゆる世間一般でいうところの"理系さん"になり、特に化学は私のお気に入りの"スキル"になっていた(数学的な知識前提が乏しくてもこの世界の仕組み、理が分かった気になれる程度の高校生向けの資料で概念を定性的に解説し"理解しているつもり"へと導いてくれたから)。

かくかくしかじか、私はハイティーンの頃になると勉強はそこそこデキルマン、科学と電算機のスキルが世間一般を比較対象とするとかなり高いが、身体的な運動能力は並以下(であることを自らの性格付けとして妥協し身体の鍛錬を怠った結果、でしかないのだが)という人物になった。同時に、ちょっとずつ理詰めメンドクサイマンと周囲に認識される事も増えていた。(この頃の私の脳が認識できている世界観では、科学≈化学、ついでに物理、おまけで生物と地学。物理は人間の観測し認識を確認しやすいレベルの現実世界の存在性や理由を当時の私には与えられないが化学はその意味でわかりやすく確認できている気になれた事、そして難しい数学の知識は食後のデザート程度で良さそうに勝手に思えていた事、そもそも中学生の頃に固定化されたこの世界の科学=物理+化学+生物+地学というお粗末な事などが化学が中心スキルになった理由だった。大学で本当の化学を学ぶ機会を経て、そして本当の科学と科学という視点によるこの世界の見方の一端に気付かせて貰うまでは。)

(ここまで書いていて、括弧が多くて長くて困った文章だと私自身悩める気持ちが高まっているが、心のポエムなのでこのままの流れでご勘弁を。ああ、これもまた括弧だ!)

それから私は大学で紆余曲折(結果的な人生、現時点までの数十年の時間で見た人物性にとっては些細で小さな、かもしれないが)も経ながら、強いC++erたちとTwitterはじめひょんな事から遭遇したりオンラインの付き合いなりには仲良くなったりしながら、結果的に情報工学と化学の分野ではそれなりに強い、一応の専門家(の端くれ)になるかと思いきや、そうはならなかった(少なくとも大学に残るという意味での"そう"は)。

"紆余曲折"については今回の記事とこの節"ルアード化"では省略。

で、ルアード化していた最近(といってもここ10年?15年?くらい)の私の話へ(あれ…もしかして25年くらい?)。

この節で触れている架空の人物像"ゲームの世界のルアードさん"は、幼馴染みにして善きライバルとの実力の伸び代とプライドのようなものに苛まれた事(というより世界に潜むネガティブな可能性に蝕まれてしまった、と言うのもよいかも)から、世界の継続性(現実世界でいうと長期的な視野における資源的な継続性に相当)をアウトオブ眼中した人生観と行動へとモードチェンジしてしまう。このモードチェンジの結果、過去の善きライバルだった人物すらも含めて、ただの我が人生を邪魔する"我が世界には要らないもの" へと認識を悲しくも錯誤させられる事になる。

私は彼"ルアード"と比べるのは大層過ぎると先に書いた程度のただの一般人物ではあるものの、私も一人の個人としてはそなりには多くの人から認めて貰える程度には高レベルの"スキル"を持ちつつも、現実世界を生きる意味は実質的に喪失し、現実世界を、ただ、いま、"わたしの存在"をゆるやかに生かしておくための道具としてしかほとんど認識していない状態になっていた。(どうしてそうなっていたかは"かくかくしかじか"と"紆余曲折"に続いての"それからそれから"、という話になるのだけど、今回はその話ではないのでそれも省略)

"近年"の"私にとっての現実世界"は、私を生かすために必要最小限の影響で、効率良く"わたし"への恩恵(というか生きながらえる程度の餌)を取り出す、そういった希薄なビジネスの対象というだけの存在、認識になってしまっていた。そんな認識でいる私と世界の接続理由はメタ的にはかなり希薄で、そうなると、次第に現実世界に興味がなさ過ぎて、それがなんであるのか、なんであったのか、どうでもよいような気がしてくる。しばらくはそれもある種の世界への"悟り"かもしれないと思っていた事もあった。

さすがに物語で描かれたルアード様のように世界の根本的なエネルギー(世界の存在性に関わるほどの資源)を搾取したりはしない(できない)が、本質的に"思考"はほとんど一緒の状態。

つまり、私は近年、私が興味を失ってしまっていた現実世界(と思っていたし、そうなるように行動するよう思考を設定してもいた)に対して、"願い"や"希望"をほとんど持たず(これもまたルアード様の世界でのそれに通じるところがある)、結果、"根絶の錬金術モードのルアード様"のように、持っていると思っていた"スキル"で世界の資源を自分が存在するために(程度の違いこそあれ)消費するだけの存在になっていた(そんな気がする)。

もう少し現実的に具体的な事象について触れてみよう。

最近、頼られる事が減ったような気がしていた。(昔の私は"何かと頼られる"し、"世話を焼くお人好し"だったと自認している。もっとも、それ故に疲れたり、人の裏切りを過学習して"近年の人生"へモードチェンジする事になった、というのが"それからそれから"の省略の部分なのだが。)

"近年の人生"においてのしばらく、私はその理由が、私が世界を"私なりに正しく"認識し、諦め、徐々に世界から私が隠遁する事で私自身のささやかな心の平穏を確保できると願い、生きてきた効果だと考えていた。しかし、恐らくそうではなかったのだろう。

ある程度、私が勝手に悟ったつもりと雰囲気で生きるうちに、単純に"私が社会から必要とされる理由が薄れてしまった"だけの事ではないか。与える必要も理由も薄れた私は求められる"スキル"をさほど補充したり探求したり勉強しなくなってしまっていたし。当然。

私は過去に私が世界へ影響しても恩恵がトントン未満にしか還ってこない事、期待を裏切られる事に"不正な因果応報"のような感覚を感じ、強めて、そうしてやがて、私の方から現実世界との関わりを積極的に消極化してきたのだから。世界も私をそれなりに認識しなくなり、私の需要ももちろん減る。ゆっくりであれ、知識は人々に共有され理解は広がり、新しい知識や着想も一般化したり、辞書引きしやすくもなる。どうせ世界が私へ"正当な対価の因果応報"を働かないのなら、それでいい、そのようになってほそぼそと適当に生きて、それで私という個体は死んでゆけばいい、そう思って計画し、実際そのようになるよう "変えた" 生き方だった、はずだった。だから、当然。(のはずだった)

この、"はずだった"、という事に、偶然もあり、あるいはそもそもそういう理由だから偶然などでもないのだが、ともかく、人との関わりが随分と減ってしまったので正確に再認識できる程度に気付けた、のかもしれない。

もともと、私はなにも、現実世界との関わりを絶つ、あるいは最小化し、契約的なビジネス化して損をしないで生きる事はそもそもは目的ではないし、寧ろ私は今でも現実世界の発展、人類の繁栄、文化の広がり、科学技術と叡智の発達をかなり純粋にこころより願っている(ほんね)。いやぁ、すっかり忘れていた(てへ)。

そもそも、"現実世界との関わりを絶つ、あるいは最小化し、契約的なビジネス化して損をしないで生きる事"は、それによって自身の心理的な因果応報のバランスの成立としての正義(てんびん)を、選択的("神"よ、もうしわけない)に、少なくとも自身に不利になり過ぎる事が心の負担となって疲弊しすぎないよう、というよりこれ以上こころが壊れてしまわずに、それによって誰も幸せにできないどころか不幸をばら撒くだけの迷惑な魔人にでもなってしまわないように、と、その保護として、保険の緩衝材や箱のつもりで、用意しただけのものだった。(うん、そういう理由、真実があった事をすっかり忘れていた)

もともとは、この現実世界で、少なくとも、最低限、巧く壊れずに生きるために考えた生き方へと接近するための方法、のつもりだったんだけど。いつのまにか、それに完全に飲まれて、その用意した緩衝材や箱そのものの存在しか認識せず、それをゆるやかに、理由もなく守る事だけしか見えていない、思考できていない、そんな人生になってしまっていた。(実に悲しく、そして勿体無い)

それゆえ、私は私が人生でやりたかった事をいくつも"忘れる"という封印、あるいは"未熟な思考と計画で保護具をトリアエズで作って装備してしまった事による呪い"のようなものを受けてしまい、現実世界に表面上の興味を失い過ぎ、"わたしを生かしておく"ためだけに、ほどほどに、私本来の優しいこころ(と私は認識しているもの)が傷つかないように慎重に考え抜いたような、そんな因果応報のバランスのとれる確実性の見込みの高い、あるいは保証付きの"契約"、取り引きだけを選択して生きるようになっていた。

結果、やがて私は世界からも、自分自身からすらも、自明な事すら見えない、認識できない、ただ、ゆるやかにできるだけ損失、損傷を受けずに"とりあえずわたしを生かす"事だけが目的として残り、"世界というものをそのためにしか認識できていない"状態となり、つまり、実質的にほとんど死にかけていた(というよりこのメタ思考においての"わたし"はつまり死んでいたのかもしれない)。

ゲームの世界のルアード様と違って、私を500年も封印したり、叩き起こして"ほんとうに望んだこと"を思い出させてくれるほどのお人好しに恵まれる環境や、そもそもそんなシチュエーションになれるほど大層な事をやらかせる人物ではなかったが、幸い(からい、ではない)、最近の虚無的な思考と日常の消費、トレードオフの正義のバランス(これは世間一般にはこれは公正世界仮説と呼ばれる思考、概念に近い何かへの、私による1つの側面的な捉え方と結果とも言えるかもしれない)が悪い意味で成立しない業務の取引先(まあ、悪意があってのことじゃないだろうけどね、ただ愚かなだけだろう。その愚かさを選択的に因果応報としてバランスするために私が意識的に行動しても結果的に私にそれ以上の"業"のようなものが蓄積して呪われるだけだ…と気付いたが)、そして近年じわりじわりと楽しませて貰っていた不思議シリーズのアトリエから、それとそもそもの私自身の本来の思考能力のまだ残っていた片鱗とお腹の調子とトイレでの暇やベッドでの善き夢見によって、気付きを得て、人生の方針を再設定できるだけの認識の回復を得て、ついでにこのポエムを書くに至れた。尊い作品を私がプレイ可能な状況に提供してくれた現実世界のすべてアクターとそれらの存在を確定したメタレベルの世界に感謝したい。尊い🙏

(ちなみに…"公正世界仮説"は愚かだと認識しているつもりでいたし、それよりも1つ高いメタレベルで思考して「公正世界仮説認知バイアスの幻想に過ぎない、それゆえ私は公正世界仮説を必要とせずとも公正な因果応報の対価を得られると見込める条件、保証を契約的に運命として選択する」という考え方を"近年"の"わたしの呪われた防具"の1つとして纏っていた。さすがに公正世界仮説をそのままのメタレベルで信じ込んでいたり、そうあるべきと考えていたわけではない…はずだった。しかし、つまるところ、これもまた所詮は公正世界仮説に取り込まれた認知バイアスに基づいた思考にほかならなかったのだ…。)

この節から得られるまとめ、教訓は主に3つ。

  1. アトリエシリーズの不思議シリーズは尊い🙏
  2. ゲームの中の単純化されたおとぎ話になるようなわかりやすい教訓すらも人は時として盲目に陥り、手段と目的が本質すら遮蔽する事にも気付けずに人生に自ら罠と呪いを敷設してしまう事がある。
  3. 短い人生、本質を思い出したなら、因果応報の正義だのメタレベルでの世界の調和だのは"世界"に運用を任せて自らの生きる本質を生きよ。

まあ、ポエムだよね。願わくば、本質としての願いを思い出せたゲームの中のルアードのように、私も私の生きる本質を見失わずにこの世界に生きて、それから死にたい。

ちなみに、私の生きる本質的な願いは、たまたま、偶然、まあそうでもないだろうけど、"人を幸せにしたい" そんなような事だったんだよね。もう結果的に20年くらい忘れてた気がするけど。そのための手段として私は"スキル"を発展させ、"人類の叡智と科学技術の発展" に少しでも寄与し、それでもって"人を幸せに"したかった。ちょうど、"科学"は私なりの"錬金術"だったわけだね。(そういうメタメタなレベルでの接続性もあって、不思議シリーズの"物語"は私に随分と善く効くところがあったんだろうな。尊い🙏)

まあ、せいぜい残された人生ではダメージを受けそうな事は器用に受け流したり回避したりしつつも、"人が幸せになる"ことに寄与したいものです。

2. と 3. とあったけど

この続きのはずの2つの節はこの節で書いた事の補足みたいなもの。ここまで長く書いてしまったので 1. 2. 3. を振り返ると、

  1. ルアード化
    • わたしは根絶の錬金術に陥っていたのかもしれない
  2. 神の認識と定義と信仰
    • 現実世界を受け入れよう
  3. 現実世界への帰還
    • 生きる事を忘れていたが、生きてから死ぬだけの、生きたい理由を思い出せた

と冒頭で書いていた。

まあ、おまけのようなものだね。

2. 神の認識と定義と信仰

この節は、次の 3. の帰還へ至り 1. のポエムのまとめへ導いた中間思考の1つ。

トイレでふと思ったんだよね、私も現実世界を生きる上で疲れないように"神を認識し定義しよう"って。実際のところは、何度目のひらめきか、ベッドの夢見で忘れた事かもしれないけれど。今回はポエムに書き留めるに至った。

もちろん、私はいわゆる現実の世界に現存する宗教の神々やその多くで伝承のためキャラクター的に扱われ"存在"している神を現実世界で認識したり定義したりしようとはまったく思っていない。そうした宗教家になる"趣味"は無い。

ちょうど、今朝みた専門外過ぎて(興味のわりに不勉強過ぎて)なんでかワカランの事に、イベント・ホライズン・テレスコープによるブラックホールと周囲のプラズマから発生する電磁波の軌跡の模式図への疑問があって、

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正確な事は論文を読んだり、そもそもブラックホールの科学や仮説について勉強する必要があるのだろうけれど、横着な私はトイレの暇に自分の脳内だけでとりあえず勝手に思考していた。

で、まあ、紫の矢印は科学的疑問ではなくて、単に解説記事の解釈や意図や背景の理論の精査で答えが得られるだろうって事はほぼ確信しているので、それはとりあえず置いておいて、重力と質量についてふわっと思ったメタ的な思考が湧いてきたんだ。

"ところで、メタファーとして、重力とは質量の密度の観測結果だろうか。"

なーんて。で、その着想も本節としてはどうでもよくて、それで考えると、考える間もないくらいに1つの結論(としておきたい何か)に遭遇する。

つまり神。

質量とは何か、重力とは何か。もちろん人類が既に可能な観測結果と理論、素粒子、仮定がある程度その答えに接近できている事は知っているけれど、科学は科学ゆえに科学的に思考する限り、"神に相当する何か"が残り続けるような気がするんだよね。究極的には定義はなぜ定義として存在できるのか、次元とは、とか。それってこの世界のなかの私達には解析や思考の対象にはできても、なぜかはわからないかもしれない(わからないと断言もできないけど)。

だから、それを、私はそのようなものを神として認識し、神はそのようなものと定義してしまって生きようかなって。なんだか25年位前にもそんな思考はしていた気がするけれど、前述のようにすっかり忘れて "この世界には神などいない" とか言うばかりの、その面では時折たぶんつまらないだけの人間になってしまっていた。

さて、それで信仰とは、という事なんだけど、私はわたし自身の思考の結果生じた呪いによって神の存在を私の思考と世界の認識の知識テーブルのなかで存在そのものから N/A としてきた。それを止める。私の中ではわたしなりに確固たる神様は居るし、それは同時に科学ですらある。自信を持ってこの定義の神を信仰する事を明確に意識する事で、生きる力に信念が形骸化した表現としてではなく、実質として加わったような気がした。

こんな日常の思考のぶっ飛びの偶発にも助けられ、この後も思考はトイレやベッドでのぶっ飛びも経て、今回は 1. で既に全部書いちゃってるような気付きから、ポエムを書くに至った。たまにはぶっ飛びの途中の思考も今後またもし呪いを受けた際に自分自身を思い出す、あるいは呪いを受けないための楔の1つとしておまけ程度に書いてみた。

まとめ…。

  1. 自分の中の神を定義し認識し信仰する事で、世界を生きる信念が得られる。信念があれば思考は正しく接続される。

適当にかっこよくまとめたが本文でそんな事は解説していない。ポエムなので気にしなくてよい。

3. 現実世界への帰還

うん、これも、もう 1. で書ききっちゃってたね(てへ)。

このポエムを書いてみて思った。某有名宗教の聖書とか最初はこういうノリのポエム的に書いたり言ったりしたものを徐々に集めて編集して整えて、意図を伝えられるようにしつつも、ある程度まとまった段階で神聖化され過ぎて編集できなくなって歴史と宗教になって残ったものなのかな、って。知らんけどね。

架空の物語、小説を書いたりする時でいうとプロットに相当する未満の状態で思いつき脳内メモリーをダンプしてみましたー、みたいな。我ながらひどいポエムを書いたものだ。これを読んで疲れてしまって不幸になる人が居ないとよいが、そんな"運命"まで私は気にしない事にした😋 まあ、居たらスマン。

???

近年はできるだけっパブリックに宣言したりは控えて、やりたいことなどは付箋に書いて自分には長い時間見えているデスクトップの隅に付箋をつけて忘れないようにしつつ、少しはできてから「実はやってました」「できました」って言う人になろうかなって思ってやっていたのだけど、それでもたまにうっかり、"脳内の静止した時間"と"現実の時間"の著しい認識の差をすっかり忘れて「こういうの思いついたー」「これやるー」といった宣言をしてしまっている事がしばしば自分でも観測と反省の対象になっています。しょんぼり。

でもまあ、25年振りに、体裁や自己の生存戦略としての上辺ではなく"人を幸せにしたいんだった" と思い出したのは、私の人生イベントとしては大きいかなーって思うのでポエムりました。まあ、私の優しい心もなぜだか忘れてしまうほどに保護したり、公正世界仮説的な認知バイアスに呪われた不正な因果応報を回避しようとしてまさに呪われてしまうような契約的生存戦術をとったり、スキルポイントのトリッキーな割り当てをして漂っているだけの人生など作らなくても、正面から戦える程度には人生の経験値でレベルアップしていると嬉しいですね。

ところで、公正世界仮説による認知バイアスとそうではない本来の世界の真実の姿みたいな事を考えると、メタレベルで混沌と秩序性について、素粒子レベルを含んだ物理学による物質と世界と時間と運命についてなんとなく本質的に同じ概念に目覚めそうな気がしてきます。まあ、わかんないからそこは私のなかでは"神"でいっかーって事にして寝ようと思うけど。楽しい夢の原因こうした混沌と秩序性を考えると、つまり私の中では"神"だから、夢は神様の啓示と捉えられるね、もちろん私の中だけでは、ね。

…同じ事を2000年とか4000年くらい前に考える脳があったら、宗教として残そうとかしたのかな。そうそう、私が思うに宗教や文化的風習や伝承として現代に残っている、あるいは伝わっている何かしらのいくつかは当時の社会や文化において一般的に理解や許容されにくい科学的な思考や哲学上のサムシングに気付いてしまった人が、それをたとえ話やトリックによる奇跡や時には嘘を流布してでもなんとか人々へ方便としてでも、あるいは後世へ伝え残る形で伝えようとし始まったものが…zzz(なお私は思考がパライソするような妙なオクスリとかは使っていませんzzz)